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新都社で漫画を描いています
・「ひとりぼっちのケリル」(2012/12/14更新・連載中)
・「nikako―ニカコ―」(2014/02/18更新・連載中)
・「ふわ〜り」(2010年夏ホラー漫画企画作品)
◆絵本(新都社文芸)
・「チャリティー・マラソン」(2012/08/31 読切)

2005.04.21

バランスへの挑戦その3(画像:お株)

言葉によって随分救われて、言葉によって同じくらい苦しめられてきたなって思うよ。言葉は、特に日本語は、技術なんだよね。同じ事柄でも何通りも言い方があって、その匙加減で印象をコントロールできちゃう訳じゃん。就活とかで散々聞かされた、プレゼン能力とかっていうのも要はそういうことでしょ。テレビCMなんかは分かりやすいけど、あれはいくら企業が物を売るためだって頭で分かってても、知らず知らずイメージに騙されてるもの。
ニュースで戦争で何人死んだって話の後で、顔色変えずにプロ野球の話になったりとかって、誰だってその違和感を口にすることくらいはあるんだけど、恐ろしいくらいに慣らされてしまってるよね。残酷なこと、理不尽なこと、都合の悪いこと、何だって嘘と言えない範囲で柔らかい言い方ができてしまう。

昔はあんまり言葉に注意してなかった。すごく無自覚に言葉を使ってしまってた。そのことに対する不安みたいのは確かにあったんだけど。それである程度歳を取って、言葉で他人がコントロールできるんだなって分かってからは、すごく警戒心が強くなった。言葉ひとつで物事が有利に運ぶか、とんでもない不利を被るか、みたいなことが分かってから、そういう技術で実績を積む手応えがあったりして。
でもそんなこと、大事な人にはやりたくないんだ。人と本当に繋がりたい時に、もし相手の感情をコントロールしたいって気持があったら、きっと見抜かれちゃうもんね。

女は男のことを永久に理解しないだろうし、血液型による発想の違いだって(私は血液型による個性の差というものをかなり信用してる)これだけ違う。二人暮らしというものをやってきて、私たちは何度も何度も傷つけ合ってきて、ようやく分かるようになってきたのは、自分にとっての前提を、もう一度説明しなおさなきゃならないかもしれないってことなんだよね。
ある年齢に達したら、多くの人が一緒に暮らし始めたり、結婚したりするけど、ひとつの家庭の中で違いを受け入れて生きていくって、本当に難しいことなんだよね。誰にだって難しいことのはずなのに、うまくやってる人たちはその技術を教えてくれないし、問題を抱えてる人たちも自分たちよりうまくいかない人たちを馬鹿にすることでまとまったりしてる。好きで一緒になったんだから、できるのが当たり前だろうっていう見えない圧力があるんだよね。

それが世界規模の話になってくると、本当に大変なことなんだよね。相互理解とかって簡単に言ったりするけど、個々の違いっていうことを顕在化させるのが下手な日本人に、そんなこと難し過ぎるはずなんだ。受けてきた教育だって違う、宗教だって違う。
そもそも文化って偏りのことなんじゃないか?ある民族が軸にしているものがあるなら、それを軸にしていない別の民族から見れば、バランスを欠いているように見えるはずなんだ。だけど人間はその偏りを誇りにして生きる権利があるってことなんだよね。だってそれが自分の原風景だから。

その4に続く予定。
お株
画像:お株
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posted by はなほの at 20:59 | らくがきと文章
2005.04.16

バランスへの挑戦その2(画像:もうすぐ泣く時)

言葉や概念っていうのは、実際に心を解放してくれたり、真理のようなものに触れさせてくれたりするものとして、人間の成長に多いに役立つものなんだけど、同時にそこに人間を縛り付けてしまうものでもあるのかもしれないね。特に私みたいに基本的に自分を変えてしまいたいって常に思ってきた人間にとっては、何か新しく手に入れる度に、進んだ手応えのある時ほど、柔軟性が奪われる危険があるんじゃないかと思って。だからいつでも充分に注意してないとって思う。

すべての人間は何かに安住している、と言えると思う。様々な角度から絶えず自己を相対化するっていうことは、結構大変なことで、要は生活と精神世界との往復のようなことをずっとやっていかなくちゃならないんだよね。それは意外に厳しい話なんじゃないのかな。
特に歳を取れば取るほど、自分だけしか知らないバランスの取り方で、人生を積み上げている訳だからね。それを否定したりするのは確かに残酷なことなんだけど、自分はバランスをとって上手に生きてるつもりで、つまらないことに縛られてるのに、誰も教えてくれないっていうことがあるとしたら、本当はもっと残酷なんだよね。

「バランス」とか「柔軟性」っていう言葉もただの標語としては役に立たない。その時の自分の心の状態にプレッシャーを与えるものなら、無視して構わないんだよね。それこそ「バランス」っていうことなんだけど…。つまり好きにしていい、すべてはOK、だけど自分の時間に責任を持つっていうことだね。誰も決めてくれないから。
楽しい、面白い、好きだ、綺麗だ、美味しい、カッコいい、気持いい、この幸せがずっと続けばいい……、その感覚の方がずっと確かなものであって、この喜びを最大限堪能するためには…っていう形で成長すればいいんだと思う。全部当たり前のことのようだけど、できない人にとってはそういう精神的な自立ってとても大変。

私は家事をする時間が惜しくて仕方がなかった。何でこんなことやらなくちゃいけないんだろう、得意な人がやってくれればいいのに…と思っていた。自分の人生なのに、いっつも投げ出したかった。面倒で面倒で、あまりにも意味を感じなくて、女や大人という理由で自分にのしかかる義務を理不尽だと思っていた。もう嫌だと思うと、自分がちゃんと楽しく家事ができる人間になりたいっていう気持もあるのに、どんどん向き合うのが辛くなってきちゃって。

でも面倒臭いのは数ある問題の中では、ましな問題だって思うようにしたら大分楽になった。「面倒臭いけど…、気が進まないけど…、やるか…」みたいな感じで。そうしたら気が楽になって、取り掛かれるようになった。そんなに大変でもなかったなって。「やってよかったな。やる前は面倒だけど、実質ものの15分もあればできるな…。」みたいな感じで、ちょっとずつ感覚を掴めてきたら、面倒な部分が結構省略できるってことに気づいたりしてくる。

億劫だったり苦手だったり嫌いだったりすることだって、本当は何かを好きであるのと同じように、自分だけの大事な感覚なのに、それをないことにするのは本当に無理があることなんだよね。好きじゃなきゃ駄目みたいなさ。そういう重圧って、すごくエネルギーを浪費する。折り合いを付けながら生きていくことを覚えると、夢中になるくらい楽しいことだったりするのにね。

階段を昇る前って恐ろしく差をつけられてるような気がするけど、実際昇り始めたらそんなに大した開きはないぞ…みたいなことも分かってきて。
家事とか、教わってないんだから、難しいのは当たり前。スムーズにできなくてもいいんだ。だって結構複雑なことやろうとしてるんだもん。経験が多い人よりは手際悪いけど、案外すぐ追いつけるもんだよ…。誰もそんなすごいことやってる訳じゃないんだから…。

また、その3に続く予定。
もうすぐ泣く時
画像:もうすぐ泣く時
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posted by はなほの at 23:24 | らくがきと文章
2005.04.15

バランスへの挑戦その1(画像:ミドルエイジ・クレイジー)

言葉を書いていくのは最近やたら難しく感じるんだよね。言葉による認知中毒から解放されつつあるというか。言葉に囚われ過ぎなくなってきたっていうのは、今の段階の私にとっては間違いなく、とてもいいことなんだけど。結局言葉じゃない部分で分かることの方が、実感として大事だと思えてきて。
だから正直に書くけど、こうして文章を書くのは日記を書き始めた時よりずっと抵抗があって、とても苦しい。悩んでばっかりでなかなか先に進まない。以前は考えられないくらい、言葉を信じて生きていたなと思う。もちろんその時には実感を伴ってるから、嘘をついてるつもりはないんだけどね。

最近よく詩を書いていたんだけど、あれはまったく個人的なことばかりで、こんなものWebで公開しちゃっていいんだろうかって気もするんだけど、残して置かないとどんどん忘れてしまいそうなので載せてる。
言葉は実感の入り口までは連れ戻してくれるけど、そこから先は自分で進むしかない。わかる、ということの領域はもう理屈じゃない。だから言葉はそれだけの意味しかないっていうことなんだよね。
でも詩を書くことには意味があると思う。文章より詩の方が、叫びに近いと思うから。自分が感じたことが真実なら、誰か同じように感じる人がいるだろうと思う。自分の他に誰も感じたことのないことなら、きっと嘘だ。表現が拙いせいで伝わらないのは仕方ないけどね。

言葉にしても絵にしても、現実を固定的に封じ込めてしまうことで安心しようとして生きていたんだけど、本当は世界はとても不安定で移り変わって行ってしまうんだよね。その中で自分は常にバランスを取り続けながら生きて行かなくてはならないんだよね。何が真理で、何が正義なのかっていう話から、買い込んだ食材が古くならないようにするためには、どういう順序で消費すればいいかっていう日常のことまで、自分の地点を顧みなくて済むようにはならない。
そんなことは人としてまったく当たり前のことなんだろうけど、教わってないんだもん。難しかったよ。これからもずっと難しいと思う。思考停止の誘惑は何て強力に、人間の成長を阻害するものか、と思うよ。

まあ恥ずかしい話なんだけど、ちょっと生活が破綻してたり、人格がぶっ壊れてたりしてもいいんだって思いがあったのは否めない。確かに今より前の段階ではそういう不完全な自分を受け入れるってことが必要で、そこを通過しなければ絶対にこんな風に思えるようにはならなかった。でも、そろそろまた先に行こうか、みたいな感じで、丁度その周期が形は違う(むしろ逆)なんだけど、みん太にも訪れたので今日は二人でそのことを随分話し込んだところ。
次回、また続き書くね。このテーマについては暫く前から随分考えていたので、何回かに分けて書くことにしました。気が変わらないといいけど…。
ミドルエイジ・クレイジー
画像:ミドルエイジ・クレイジー
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posted by はなほの at 21:14 | らくがきと文章
2005.04.11

寿司の夢、そして日本人の感性(画像:おせんべ食う鬼)

最近よくお寿司を食べるんだ。貧乏人だからお寿司なんかほとんど買わないし、食べに行ったりも全然しないんだけど、本当は二人ともすごく食べたいのだった。こんなに好きなのに、この欲求を無視したまま生きていいのか?人生短いのに?それ以上に望むことなんてそうそうないのに?……なので、自分で握ったのでしたー!!
マグロをサクで買ってきて、包丁でネタを切って、酢飯をひとつかみずつ握って、ワサビをつけてネタを乗せる。カツオは生姜と葱を乗せて。あぶったサーモンでも作った。あとのり巻も。最近初めてやったんだけど、お寿司ってこんなに簡単に食べられるんじゃん!!しかも買って食べるより全然安いし。回転寿司くらいの出来ではあると思うよ。

みん太が「寿司握ってよ」と懇願したので初めて挑戦したんだけど、とっても感激してくれた。みん太が気に入っていた岡本かの子の『鮨』という作品を暫く前にまた二人で読んだので、「拵える人は、おまえさんの母さんだよ。」「すし! すし」などと言って真似をしながら食べたのだった。
刺身もいいんだけど、寿司の方が夢があるんだよね。完璧な食べ物だよね。一口で完結することの心地よさっていうのは、味わってみないと分からないんじゃないのかな。食事というものは皿から手か道具を使って食べるとか、塊を一口ずつかじるっていうのが世界の標準なんだよね、きっと。
寿司は主食とおかずがひとつになっていて、しかも初めから混ざっている訳ではなく、自分の口の中で味や食感が融合していくのを楽しむんだよね。何だか自分で作ってみて、改めてこのシンプルで合理的な寿司というものの世界に感動しました。

お菓子の個包装も(言うまでもないかもしれませんが)本当に徹底してるよね。高いのは問題だが…。形とか食感で美味しく感じさせる文化がどこまでも発達していくよね。結局味が濃いだけとか量が多いだけの輸入品のお菓子って、なかなか主流にはならないんじゃない?

よく日本文化の発達の仕方を考える時に、年少者に優しくあろうっていう方向を持ってるんじゃないかと思うんだよね。ひらがなが生まれた理由も同じなんじゃないかと思って。それは結局、年寄りや病人にも優しくっていうことになっていくんだろうけど。
自分にとって簡単なことや標準的なことでも、ハードルが高いと感じる人がいるから、その人に合わせる為に感覚を研ぎ澄ましていく。そうやってハードルを下げることで、誰にとっても気持よく簡単なもの、つまり品質の高いものを生み出すことになる。今の社会だったらそれが企業の利益になる訳だから、どこまでも追求していく。

つまり日本人の感性は、子供なんだよね。お菓子って子供だけが食べるんじゃないもんね。大人がすっごい食べるし、大人の為に作ってるお菓子ばっかりだし。大人がお菓子を食べる時、子供に帰ってる。
寿司を食べる時も、自分の為に食べやすく、美味しく、気持よくしてもらっていて、当然のようにその愛に包まれていいっていう安心感を堪能してる。
お握りもそうだね。今日は随分働いて疲れたから、さあ食べようっていう時、お握りの嬉しいことと言ったら…。お弁当箱よりもやっぱり、体動かした後なんかは手で持ってぱくっとしたいよね。
(何かの知識があって言ってる訳ではなく、飽くまで私が勝手に思っただけのことだけどね。)

それにしても、自分の欲求に優先順位をつけて整理するっていう作業はつくづく大事だと思うね。すごくしたいことを諦めて見ないようにしながら、どうでもいいことにその何十倍もの金やエネルギーを割いちゃってるっていうことがいくらでもあるもんね。整理されてない情報の中から自分で選択して決めるってことは実はとっても難しいからさ、目の前にあることだけを処理するのが楽なのは当たり前なんだよね。特にそういう大事なことを私たち教わってないんだもん。貧乏性だし…。
でも、整理することから逃げるのはもうやめ。苦しくむずくめんどいけど、自分の欲求に気づいてそれを満たせるのは自分だけだもん。それだけは、誰もやってくれないんだよね…。
おせんべ食う鬼
画像:おせんべ食う鬼
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posted by はなほの at 16:05 | らくがきと文章
2005.04.01

司馬遼太郎のエロい小説(画像:怒られた後猛烈に抗議する図)

何日か前にブログタイトルの画像を新しくした。左の方にいるカエルは、東京に住んでいた頃に飼っていたヒキガエル。時期はいろいろだけど合計で3匹飼った。初め「ダリ」とか「クリムト」とか名前をつけたんだけど結局定着せず、どのカエルも「ケロ」と呼んでいた。またそのうち書こうと思うけど、そのうち2匹は私が殺してしまった…。
動物や機械などの寿命を終わらせるのはいつも私だった。昨日も飢渇丸(前にも書いたけど、きな粉と胡麻と蜂蜜をこねたものをうちではそう呼んでいる)を作ろうとして、ビニール袋にいれた材料(粘土みたいになった塊)を閉じたノートパソコンに叩き付けてたら、みん太に怒られて「えっ」となった。柔らかいものだから大丈夫だと思ってまな板代わりに使っていたけど、「お前、これは台じゃなくて精密機械なんだぞ!!」と言われたので「あっ」と肝を冷やした。壊れてなくて本当によかったです。

それから「CDジャケットデザイン」というカテゴリを作ったりした。あとロゴもようやく完成したのでどんどん使って行く予定。本当に初期の頃からずっと欠かさず見てくれてる方がいるみたいで、ただならぬ縁を感じてしまいます。貴重な時間を割いて遊びに来てくれてると思うとつくづくすごいことだ。そして自分たちが変化していく過程を知ってる人がいてくれるということがとっても心強いです。ありがとう!

最近詩をよく書いていたので、詩の更新が進んだ。何もない時には全然書かないんだけど、たまにすごく書きたくなる時期があるので、そういう時は毎日書くので詩の更新だけ進んでしまった。最近アップしたやつは大体その日に書いたものです。
最近日記の更新が空いたので、どうやって文章書いてたのかわからなくなった。何でものってる時には他のことできなくなっちゃうからなー。ちょっと日記書かずにいると言いたいことも溜まってくるんだけど、整理するのが難しくて…。

最近あったことと言えば、今週の爆笑問題カーボーイのレディーボーデンのコーナーで、「生きていくのに必要なものは」(だったと思う)っていうお題の時、ぱっと頭に浮かんだ答えが太田と一緒だったので、すごーく嬉しかった!!最近考えていたことだったので、やっぱりこれだろうって思って。その答えは「勇気」でした。
あと、最近は司馬遼太郎の初期のエロい小説をどきどきしながら読んでいる。こんなにすごいエロ小説があるのを知らなかったんだけど、ものすごく面白くて、みん太が先に読んだところを喋ろうとするから「楽しみを減らすんじゃねえよ!」と叫んでいるのだった。
怒られた後猛烈に抗議する図
画像:怒られた後猛烈に抗議する図
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posted by はなほの at 23:04 | らくがきと文章
2005.03.24

自作スピーカーの素材その2(画像:ともに集中している時、片方が集中している時)

いい音を求めるみん太の挑戦はまだ続いていた。そして辿り着いたのは、サラダ油のペットボトルであった。たまたまうちにあった「豊年サラダ油」の1500gの潰して捨てられるエコボトル。
ギタースピーカーは素晴らしいんだけど、旅行用に持ち歩くことができないので、もっと手軽でいい素材はないか…といろいろ試しているうちに出会った感動的な音が、このペットボトルであった。ペットボトルも大きさや厚さや質感がいろいろあるから、かなり差が出るんだね。まだ手元にあるのが少ないのであんまり試せないんだけど(だってペットボトルの飲み物はほぼ買わないし…)、たまたまうちにあったこの素材はかなりヒットだった。

何日か前にみん太は醤油のペットボトルの底に穴を開けたんだけど、底の部分がめちゃくちゃ分厚くなっていて、とても刃物で切れないので、ガスコンロで直接あぶったり、ライターで釘を熱してそれで穴を開けようとしたりしていた。しかも固まったところがかちかちになって余計盛り上がって切りにくくなったりして、とっても大変そうだった。
しかし今度のサラダ油のエコボトルは簡単に折り曲げられるだけあって、加工しやすい!ハサミでさくさくと切ることができるので、はめたい形に合わせて綺麗に穴を開けられた。何て優しいエコボトル!!

見た目も半透明でおしゃれだし、手触りもいい。よそよそしくないというか。素材の柔らかさが音に表れているっていう感じがする。音の粒が玉の形だとするなら、とっても大きな玉なので気持いい、というようなイメージ。
昨日みん太が作ってから、いろんな曲をこのスピーカーで聴いてるんだけど、本当に心地いい音なんだよね。打楽器の音が特に、どしどし、ばこばこ、みたいな感じの音で、何か体によさそうなの。ギターの方が確かに音はクリアーなんだけど、エコボトルは何とも言えない優しい響きで、例えるなら水の中からぼこぼこっと大きな泡が出てくる時の音に似た感じ。

素材感がそのまま音になってる感じがする。側で聴いていても、うるさく感じないんだよね。特に低い音が懐が深くて温もりがある。この気持よさ、かなりやみつきになっているのだった。
茶缶の時は、響きがいい感じだと思ってたんだけど、もっとひりひりする感じの音だったんだよね。側で聴くと、その尖った感じがちょっと体にきついような感じがあったから、エコボトルはすべてにおいて優れていると思う。
これからも、みん太のいろんな素材への挑戦は続いていくと思うので、またいい素材に出会えたら書きます。今はとにかくエコボトルがお気に入りだった。エイフェックスの『Richard D. James Album』を聴いたりしてたんだけど、最高!!

私は何もわかってないので、感覚だけで言っています。専門的な知識のある人や、自作スピーカーを研究してる人から見たら、かなりいい加減なこと言ってると思われてしまうでしょうが、どうか大目に見てやって下さい。
ともに集中している時
画像:ともに集中している時

片方が集中している時
画像:片方が集中している時
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posted by はなほの at 06:54 | らくがきと文章
2005.03.22

自作スピーカーの素材(画像:バリ)

みん太はついにスピーカーを自作した。前から手作りスピーカーのサイトを見て「自分もやってみたい」と言っていたんだけど、ついにPCに付属のスピーカーを解体し出したのだった。普段からこたつの周りには読みかけの本や、お茶の缶や、脱いだセーターや、食べた後の食器などが雑然と置いてあって、次に使う時に片付けるという暮らしなんだけど、その中でまたみん太は作業を始めたので足の踏み場もなくなっていた。しかし、その日のみん太はとても軽快に周りの物の山を乗り越え、道具箱をあさり、必要な工具を揃え、ペットボトル、紙の筒、茶缶などのスピーカーのボディになりそうなものをせっせと集めてきた。

この記事を書いている私がまったく機械というものをわかっていないのであんまり詳しく説明できないんだけど、それでも音を聴き比べるのが面白い!いろんな素材の音を聴かせてくれたんだけど、お茶の缶は金属なので「モイイモイイ」と響くのがとっても新鮮だったので、私は初めは「これが一番好き」と言っていた。音があんまりクリアーじゃないというのは薄々感じていたんだけど、みん太が茶缶の中に紙の筒やプラスチックの器を入れて「こうするとどう?」と言った時に、何か金属っぽい響きが死んじゃうような感じがしたので、「缶だけの方が好き」ということで、その日は初めての自作・茶缶スピーカーが誕生したのだった。

その後はテレビもスピーカーで聴くようにしてくれた。それにしても、真面目に音を聴き比べるということ自体したことがなかったので、自分に違いがわかるものだろうか…と思っていた。味の違いとか、音の違いとかってわかるようになりたいけど、そんな風に感覚を研ぎ澄ますのって、簡単じゃなさそうだもん。
でも、何かわかるようになった気がしたんだ。前は集中しなきゃっていう強迫観念みたいなのがあって、それが自分にとって不自然な努力のいることだと思ってた。でも、そうじゃないんだよね。むしろ逆、楽になっていくことなんじゃないかって思い始めた。余計なこと考えるのをやめて、誰かが演奏して、声をあげている、その音のひとつひとつが自然にかなっていて気持いい、その奇跡にただ触れるだけでいいんだっていうこと…。

スピーカーはひと晩経ってからまた冷静に聴き比べてみたら、全然こっちの方がいいじゃん、というものがあった。…て言うか、一日目にみん太が「これどう?」と言って聴かせてくれた時には、「うーん、それは何か普通だな。やっぱり茶缶の方がいいや」と言って、私があっさり候補から外してしまったものだった。は、恥ずかしい…。それは、ギターであった。
うちにはクラシックギターが3本あるんだけど、全部弦が張ってあるのが1本しかないので、もう2本は埃を被って眠っていたのだった。その2本のギターをスピーカーのボディにして音を聴き比べてみたら、さすが楽器!!断然いい、というのが私にもはっきりわかるほどよいのだった。音がそれぞれ独立して聴こえるっていうか、生演奏のようなありがたさを感じることができるのだった。余韻があるし、何だかしみじみと音を体験できて感動!

一応どうやって作ったのかを説明しておくと、茶缶のプラスチックの中蓋に穴を開けてスピーカーのユニットをはめてネジで固定したものを、ギターのホールの部分にはめた。(大きさが丁度よかったので、うまくはまった。)ホールにはめるために弦を緩めるけど、どこかを壊したりする訳じゃないし、ギターが使えなくなったりすることはないので、ためらいなくできるのがいいところ。

そして今、この日記を書きながらもギタースピーカーの音を聴き続けている。みん太が試行錯誤して作ったスピーカーだと思うと、なおのこと大事に聴こうっていう気持になる。ギターの音は特に、この楽器から鳴ってるような臨場感もあっていいんだよね。私はギター全然弾けないから、普段ほとんどギターの音に注意して聴いたりしてなかったんだけど、このスピーカーから聴こえてくると、うまいなーとか気持いいなーと思って、今は丁寧に聴いている。
さっき二人でジョン・レノンの『God』を聴いて、さめさめと泣いた。言いにくいことを言ってくれる人が本当の大人だと思う。
バリ
画像:バリ
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posted by はなほの at 06:49 | らくがきと文章
2005.03.14

夢の中で都会はいいな〜と思った(画像:カーテン)

都会に暮らす夢を見た。夢の中で、人間の作ったものに囲まれて生きるっていうのは何て楽しいんだろうと思った。うちの部屋のすぐ下の階はガラス張りの美容院で、ベランダから見下ろす通りは夜通し灯りが消えない。周りに立ち並ぶビルはみんな24時間開いていて、コンビニやデパートや飲食店が入っていてとっても賑やか。夜中にふと寂しくなったら、外に歩きに出ればいい。人が大勢いるんだから、危険なことなんてないし、お店もずっと開いてるんだから、つまらないこともない。まるで遊園地みたいで飽きることがない。終わらない夢の世界。大勢の人が好き勝手に生きていて、風通しがよくて解放的で、何て居心地のいい世界だと思った。(現実には存在しない私の都会像…。)

夢っていつも不思議だ。自分の中にある感覚に気づかせてくれるから。布団の中でそれを思い出す時間が、生きてて一番楽しいかもしれない。
今、田舎に暮らしてるんだけど、都会への未練みたいなものはすっかり捨て去ったと思っていたのにな。私の知っている東京はもっと息苦しくて、視界が狭くて、要らない情報が押し付けがましく氾濫していて、汚いものが溢れ出していて、すっごく殺伐としていたんだもん。

今いる場所は田舎と言っても中途半端だからなー。大きな自然に囲まれてる訳じゃないし。最近散歩してて思ったのは、私はここに来る前に(それぞれの期間は短いが…)都内でいくつかの場所に住んだことになるんだけど、生まれた場所も、実家が引っ越した先も、学生時代に実家を離れてからも、どこに行ってもそれほど風景は変わらなかった気がする。つまり私の原風景は住宅地なんだな。もうちょっと田舎に行っても、東京に近づいても、こうやって日本で定住する限り、住宅地に暮らすことになるんだろうな。

ここでの生活は初めから前向きに選んだ訳ではなく、経済的な無駄がどうにもならなくなって都落ちしたのだった。家賃が高くて、みん太が早く東京を離れようって言ってたのに、私がやだやだって言ってたせいで数ヶ月分の高い家賃を払いながら将来の不安に震えて暮らしていたのだった。
しかもあんなに東京にしがみついていたのに、こっちに来たらどうでもよくなっちゃったんだよね…。知ってる人がすぐに訪ねて来たり、外でばったり会ったりする心配もなくなったし。

でも、田舎はやっぱり閉塞してる。学生アパートなんて気楽でよかったな。家賃で暮らすのは体に悪いけど…。
近所付き合いとか町内会とか言われても冗談でしょって感じだもん。実家に住んでる時も随分ご近所の噂を栄養にして、みんなが団結してたりしてたもんな。本当に気持悪いよああいうの。
やっぱり都会の居心地のよさっていうのはあるんだね。誰かが誰かのために常に新しいものを用意していてくれる。都会の一員であるためには、それなりにお金が必要だけどね。

夢は本当にリアルな感覚を呼び覚ましてくれるな。何かすっごい都会というものが新鮮だったもん。母親が「月20万だから迷ってる」とか言ってるのを、「ここいいじゃん、私にも鍵ちょうだい。渋谷だったら近いし…」とか言ってるの。
何故か夢の中での設定では渋谷だったが、具体的な場所じゃないし、今だってどこの都会であろうと街全体が24時間眠らないってことはないよね?やっぱり夢の話だからな…。
月20万って自分で払うのは考えられないけど、親が決めるんだったら…とか思ってるの。まあ、これも現実にはあり得ないね。そんな金の使い道は。

夢の話って本当に面白いから、人の夢の話も聞きたいな。最近みん太と毎日のように夢を報告し合っている。
タモリも「夢見ますか?」って聞かれて「見る見る。趣味、夢っていうくらい。」とか言ってたから感動しちゃった。そう言えば最近タモリの夢も見た。
タモリの展覧会みたいのに行く夢。会場に本人も来てて、周りの人に話しかけられて「これは…」とか言って説明してた。その会場には、タモリが描いた絵とか、撮った写真とかが壁いっぱいまで貼ってあって、しかも小6の時に使ってたラテン語の辞書とかあるの。そういうの観ながら、この人やっぱり真のインテリなんだ…とか思う夢。面白かったなー。
カーテン
画像:カーテン
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posted by はなほの at 22:05 | らくがきと文章
2005.03.10

『たけしの地球極限スペシャル』を見て(画像:キス車)

今日は大学に退学願を郵送するために郵便局に行った。もっと近所にポストあるのに、そこは回収が朝の9時半くらいに一回だけなので、わざわざ郵便局まで歩いて出しに行き、ついでにお散歩したのだった。空き地にふきのとうがあったら摘んで帰ろうと思ったがまったく見つからず残念。みん太は花粉症なのでずっとくしゃみしててかわいそうだった。

昨日『たけしの地球極限スペシャル 人類20万年!奇跡の旅』という番組を見てて、フィリピンの浅瀬の海で、船の上で生活する民族の子供が始めて陸地に降り立つ、というのを見てた。海の上で生まれた子は陸地の感覚に慣れなくて、初めは怖がって泣いている。すぐに慣れて遊ぶようになるんだけど。人間が安定した陸地を怖がるのが不思議みたいな感じで取材してたけど、あの感じって何かすごく共鳴したんだよね。

水の上にいる時ってずっと気持よく揺れているわけでしょ。胎内みたいに。陸地で生活している人間だって、船から降りた時には怖いって感覚持つんだよね。足の下から地面が突き放してくる感じ。自分を優しく揺することなく、冷たく沈黙する固い大地の感触。それもやっぱりすぐ慣れるんだけどさ、何か暫く受け入れたくないような悲しい瞬間がある。

水の上じゃなくても、乗り物ってみんなそうだよね。電車に乗ってて目的地に着いて、ホームに一歩踏み出した時の、ふと現実に戻される感じ。高速道路のサービスエリアで、バスから降ろされる時の居心地の悪い感じ。一段、二段ってバスの高い階段を降りる時に、足元が覚束なくて落っこちそうになる。地面に降り立つ時の急激な違和感と、さらに日差しでくらっとするのが同時にやって来て、何か出遅れる…。学校の行事とかで集団行動させられたりする時にやたら虚しいのって、何かそういう体の違和感を全部押し殺してみんなについてかなきゃいけないっていう理不尽があるからなのかもね。

子供の頃、いつか金持になったら一番欲しいのはウォーターベッドだと思ってたんだよね…。液状のものや柔らかいものに体を預けたいという欲求がとっても強いもんだから。
ジェットコースターはすっごく怖いんだけど、基本的に体を揺す振られるものは好きだなー。みん太は遊園地の怖い乗り物が大好き。あれもさ、降りた時って地面固く感じるよね。みん太は「遊園地の乗り物は高密度の海なのかな」と話をまとめていた。

ところでさっきネットで調べてたら、ライブドアの堀江貴文社長の血液型がA型だというのが分かって大満足だった。テレビで喋ってるの見て、二人で「この人絶対にAだよね」と話していたので当たっていてよかった。日本人の4割を占めるというA型の人との付き合い方の技術が、私たちにとってかなり必要だったので、A型の的中率は結構高いんじゃないかと思う。(OもBもABも分かる。だから全部分かる。)
キス車
画像:キス車
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posted by はなほの at 23:09 | らくがきと文章
2005.03.08

急に旅支度が始まった(画像:たき火)

昨日今日と色々と事が進んだ。こんなに変化があるのは私たちにとってはとても珍しい気がする。まずは中古ノートパソコンをやっと購入して、二人で同時に使えるようになったこと。今までは片方が使ってる間もうひとりは本を読んだりテレビを見たり、或いはパソコンが空いてないという理由でご飯を作ったりしてたんだけど、これからは二人で同じ時間を過ごせる。この便利さを今、すごく新鮮な気持ちで堪能しているところ。生活よりもパソコンの中が現実だもんね。ひとり一台なきゃ効率が悪くて…。

それから昨日は、一年くらい前に生ゴミや庭木の剪定物や紙類を積んで作った堆肥塚の中身を、庭の土に埋めた。何故ならもうすぐ旅行に出ようと思っているからだった。この先要らないたんすや大量の紙ゴミなどを庭で焼却して家の中をすっきりさせてから出るつもり。あとひと月くらいで出発する予定なんだけど、それも昨日急に決まった。

今日はパスポートに必要な戸籍謄本を取るため本籍地の役所に申請書を郵送した。いよいよ旅に出る時が来たのか…と家の周りの景色も感慨深く眺めた。今日は暖かかったね。空気がふわあ〜っと気持よくて、日本の春だな〜と思った。
しかも私は大学中退の申請書請求を大学宛に出した。ぐずぐずしてるうちに間に合わないから速達で送ることになった。うちに古い切手がいっぱいあったので計算して、41円切手2枚と62円切手4枚と20円切手1枚を貼って、「無駄な切手が使えてよかった」と言って私が無理やり満足していたら、みん太が「この世に無駄な切手などあろうか」と言っていた。

それからずっと前にメールした大事な友達から久し振りにメールの返事が来ていた。私たちと彼はお互いに(少なくともこっちにとっては)本当に大事に思っている故に気軽にメールすることはなく、3ヶ月くらい空くのが常なんだよね。長い時には半年空いたりして(すぐに返事することもあるけど)、しかしそのメールの密度の濃さと言ったらない…。その人からメールが来ると「あっ!!来た…」と言って二人で読むんだけど、私は必ず泣いちゃうくらいすごい。「○○がいた。」「うん、○○がいるね。」と言って二人で頷き合っていた。
その人が生きてるってことが、私たちにとって本当に心強いんだよね…。そういうことが、新しいことへの挑戦を後押ししてくれてるような気がして、本当にありがたいのだった。
たき火
画像:たき火
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posted by はなほの at 21:36 | らくがきと文章