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新都社で漫画を描いています
・「ひとりぼっちのケリル」(2012/12/14更新・連載中)
・「nikako―ニカコ―」(2014/02/18更新・連載中)
・「ふわ〜り」(2010年夏ホラー漫画企画作品)
◆絵本(新都社文芸)
・「チャリティー・マラソン」(2012/08/31 読切)

2005.05.28

クラシックブーム到来(画像:ギター)

最近うちにクラシックブームが巻き起こっている。今まであんまりオーケストラとか聴かなかったんだけど、急にその季節が訪れたのだった。
きっかけは私がみん太の足をマッサージしながら、クラシックを歌ったらいいんじゃないかと思って、「タイスの瞑想曲」(タイトルはすっかり忘れていたので調べた…)や「モルダウ」を歌っていたら、みん太が「いいね〜」と言ってくれたので気分がよくなり更に歌い続けた。(しかしすぐにネタは尽きた…。)みん太は昼寝をするためにベッドに来たのだが、私が小学校の音楽の授業で習ったクラシックの話とかをし始めて、次第に歌いながら思い出して「う、う…」と泣いたりしたので、結局起きてネットで公開されてるクラシックの曲などを早速聴いてみよう、という感じになった。それが4、5日前、思えばクラシックブーム到来の瞬間であった。

「タイスの瞑想曲」は、バイオリンになったつもりで、のびのびとビブラートをかけて歌うのが気持いい!高音が鼻とか頭頂部に響く感じがよい。台所で食器洗いながらものすごい歌ってしまう。
「モルダウ」はよく合唱で歌わされたりしたけど、オーケストラの演奏がやっぱりいいよね。主旋律の始まりの何と郷愁に溢れていることだろう…。作曲者のスメタナは、これを作った時には聴力を失っていたそうだから、ふるさとへの思いも然ることながら、人生そのものに対する郷愁のメロディーなんだろうなと思った。だから私たち日本人の心にも、深く深く沁み入るのだろうな。

その後昔よく聴いてはまっていたドヴォルザークの「新世界より」を聴いて、二人ですごいすごいと言っていた。何かすごい豪華なんだよね。すごい才能だー。天才に天才って言うのも何かあれだけど、いやー、まったくすごい。かっこいい。聴いてると気分が高揚してくるんだよね。ちっとも重いところがないというか。
みん太は「昔よく父親とテレビで見ていた西部劇を思い出す」と言っていたけど、確かに。(みん太のアル中の父親が「ドンパチが見たい」と言って、機嫌よくいてくれる保証のある時間だったらしい。)アメリカで作曲したから「From the New World」っていうのは学校で習ったけど、もしかしたらこの曲自体が西部劇の音楽のルーツになってたりするのかな?
実家に住んでた頃「新世界」すごい歌ってた時あったな。クラシック鼻歌で歌うのって気合入ってて面白いよね。すごい速い掛け合いのところなんか低音と高音を交互に全部歌ったりして。主旋律歌ってる時にも自分の頭の中では別の音も鳴ってるから、ひとりですごいのってくるんだよな。うーん、楽しい!!

ものすっごい速い曲聴いてると、(私は基本的に速いのが大好き!)楽器の音がこぼれ落ちそうになりながら、こぼれずに全部ついて来るのが爽快!演奏してる人は見えないくらい速く指動いてるんじゃないの?とか想像しながら。あんまり意識しなかったけど、自分の音楽の原風景はかなりクラシックの比重が高いのだなと思った。別に家でクラシックが流れてたとかいうことはまったくないんだけど、ピアノ習ってたこととか(すごい下手。全然弾けません。)、あと友達からテープ借りたりとか。
ちなみにみん太のギタースピーカー(PCスピーカーの音が出るところをギターのホールにはめたもの)が左右で大活躍!みん太も「弦楽器の音に最適なのではないか」と言っています。クラシックブームが来るまでは、ペットボトルスピーカーに落ち着いていたんだけど、またギターに戻したら断然よかった!

それにしても、私は感じ方が雑で恥ずかしいんだけど…。何に対しても自分がいいと思った部分の話しかできなくて。いつもものごとの理解が著しく局所的かつ表面的なのよね。何かを好きになる時ってスピードが大事で「もっと、早く、早くくれっ…」となったので、クラシックというジャンルで知ってる名前から順番にどんどん調べて聴いているところ。
今はチャイコフスキー、ブラームス、ヨハン・シュトラウス2世などの有名な曲を見つけて聴いてる。CDもうちにあったんだけど、まったく聴いてなかったので「いいのがあるじゃん!!」とか言って大喜びで聴いている。

オーケストラの楽譜を作っちゃうっていうだけでものすごい才能な訳でしょ。しかも歴史に名前が残ってるなんて。私でも名前は知ってるとか、タイトルや作曲者は知らないけど歌える曲とか、そういう仕事をした人がどんな感じの人だったのかとか、どんな時代でどんな人生だったのかっていうのを、本人の言葉や周りの人の手記とかを読んで、「うわー、わかる!」とか思うのって本当に夢があるよねー。

またクラシックのこと書けたらいいな。これからどんどん知っていくのが楽しみで楽しみで…。今よく聴く曲の基礎になってるんだなって色んなところで感じたりするし。でも言葉であれこれ言うのは難しい上に、あまりにも何も知らないので恥ずかしいけど。何かお勧めがあったらぜひ教えてください!
ギター
画像:ギター
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posted by はなほの at 19:59 | らくがきと文章
2005.05.05

みん太が死んでしまった…けど夢だった(画像:みん太)

今日は初めてみん太が死ぬ夢を見た。すっごいリアルな夢だったから、起きた時みん太が右側にいて本当に安心した。暫くひしっと抱きつきながら夢の顛末をみん太に話した。思い出すにつけ不思議で不思議でたまらなかった。

夢の内容というのは、みん太が一緒にいない時に、知らない間に死んでしまうの。それで、私は一見受け入れて落ち着いてるような感じなんだけど、まったく実感がなくて、こんな時に何をするべきか、感じるべきか、わからない。ただ所在なくて、落ち着かなくて、それでみん太の携帯に電話してみるの。
すると携帯が発見される。見つかった携帯は銀色の、私が知らないやつだったので、つい最近機種変更したばかりなんだな…とわかる。みん太は事故で死んだ(殺された)ので、携帯の上のところがぐしゃっと歪んでいる。
私はその壊れたみん太の携帯のボタンをカチカチ押してみる。画面の表示がどんどん切り替わる。みん太も変えたばっかりの携帯の操作を覚えようとして、ついさっきまでカチカチやっていたんだろう…と思う。さっきまで、当たり前のように生きていて、今はいない。死んだ。

圧倒的に何か足りない。私が悲しみを自分のものとして感じるために、今まで世界を完全に感じさせていたものが、ない。あるべきものが、ない。
穴だ。巨大な穴。世界は急速にその穴に向かって流れ落ちて行ってしまう。その穴を埋める術はない。光に、色に、すべての構造に、人に、世界に、意味がない。伝えるべき言葉もない。共感がない。喜びがない。悲しみがない。感情に意味がない。穴が空いて、すべては空虚になった。

私は強烈に後悔する。彼の子供を作らなかったことを。彼の遺伝子をこの世に残さなかったことを。彼の子供がいれば。子供の中に彼は生き続けることができたのに。つまらない理由で、子供はまだ作れないと思っていた。自分がちゃんと大人にならなければ、子供を幸せにできないからと、言い訳ばかりして。そんなこと本当はどうにだってなったんじゃないか。今みたいに不完全なままじゃ産みたくないっていうのは、親のエゴなんじゃないか。そんなことより、子供の人生にとって一番いいのは、自分を後回しにされることじゃなくて…。
遺伝子を残せなかった彼は、もう完全体にはなれない。彼は子供のまま死んだ。私が彼の幸せを後回しにしていたから…。

私はみん太の携帯を握り締めたまま、人がまばらな図書館のような場所の、広い階段の踊り場より少し上にいて、白い壁の方を向いて階段の途中にしゃがみ込んでいる。そこで、目が覚めた。

私は平和ボケしてるんだ。つまらないことですぐにみん太に悪態ついたり、手間を惜しんだり。人生の大局を見ようとしていない。くだらないことで他人を羨んだり、目の前の餌に誘惑されやすかったり。どうでもいいようなことで一喜一憂しては、心を砕いて生きている気になっているだけで、いざという時の為の準備は何もしていない。

本当に自分が大事なものを失った時に、他人が羨ましく見えたりするだろうか?今よりもっと自分が若ければいいのに、なんて嘆いたりするだろうか?恐らく、そんな感情は吹っ飛んでしまう。大事な人をちゃんと大事にできなかったことの後悔の方が、ずっとずっと強いんだ。自分が死ぬ時だってきっとそうだ。他人と比べてばっかりで、何で全力で自分を大事にできなかったんだろうって、その思いに気づいて、やり切れないだろう。

ああ、何て愚かなんだろう。周りの人も死んでいくし、自分がいずれ死んでしまうことも分かってるのに、どうして予期できない喪失に遭遇して初めて気づくことがあるのだろう。夢の中で、こんなに空虚が耐え難いものなら、もっともっとできたはずだ、と思った。嘘であってくれ、やり直させてくれ、と思った。

人間は後悔する。苦しむ。ものすごく大きな悩みだと思っていたことが、急に訪れる不幸によって、どうでもいいことになってしまったりする。取り返しのつかないこともある。でもやり直せることもある。できることについて真剣に考えてみる。何度でも、違う角度から見直してみる必要がある。何が大事なことなのか、いちいち考え直す必要がある。やり直しがきかないことは、いつやって来るかわからないから…。
みん太
画像:みん太
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posted by はなほの at 19:14 | らくがきと文章
2005.04.23

バランスへの挑戦その4(画像:ペラペラ)

ひとことで言うなら、ひとりで立ってる人が偉いってことなんだよね。「詩55」で言いたかったのも、そういうことだったんだよね。誰かに寄り掛からずに、自分でバランスを取りながら立ち続けるって覚悟を持った人にしか感じられない風があるんじゃないかと思って。
人間が重力に逆らって、自分自身の体重を両脚で支えながら立ち続けるっていうのは、本当は大変なことなんだよね。自分の体重さえ支えられない人が、他の人を助けようとしたり、それをいいことに周囲の人が際限なく寄り掛かったりするというのは世の常だけど、それを美談にしたら駄目なんだ。本当に誰かを幸せにしたいなら、自分が幸せになってその生き方を見せるってことしかないんだよね。

だけど現実には多くの人が、自分の今の状況を肯定する集団に安全な居場所を与えられれば、容易く人生を受け渡してしまう。そういう居場所が周り中に用意されていて、むしろそこに所属することが大人になることだと教えられる。そして本当は似たもの同士で集まってるだけの集団なのに、そこで認められて上に行くことが人生のステップアップだって思い込まされてる。学校に始まり、人生を支配し続けるその呪縛を、一体どうやったら解くことができるんだろう?

日本人は一生大人になれない民族だ。ごく一握りの本物だけが、しかも運のよかった人だけが、そのからくりに気づいて大人になろうとする。そういう人たちが必死で正気っていうものに気づかせようとするんだけど、日本人でそっち側に行くためには、大抵ものすごいトラウマを背負いながら生きるか死ぬかのところを通っていかなきゃならない。それも自分ひとりでそのことを受け入れた人だけ。だから、他の国に比べてすごく遅い。いつも遅すぎる。

自分がすぐに「日本人は…」とかいうのもどうかと思ってるけど…。結局自分のことでしかないからさ。でも自分の目をずっと曇らせたまま許していた(?)この世界の仕組みを解明していくってことはもう自分の一生の仕事だと思ってるから。(偉そうな言い方ではずいけど…。)またそればっかりになると、それを言い訳に自分自身の人生をなおざりにしちゃいそうだから気をつけなきゃいけないけど。私たち暮らしを放ったらかしで日本論みたいの喋ってばっかりだからな…。かなりバランスを欠いているのだった。

その5に続くかも。
ペラペラ
画像:ペラペラ
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posted by はなほの at 23:24 | らくがきと文章
2005.04.21

バランスへの挑戦その3(画像:お株)

言葉によって随分救われて、言葉によって同じくらい苦しめられてきたなって思うよ。言葉は、特に日本語は、技術なんだよね。同じ事柄でも何通りも言い方があって、その匙加減で印象をコントロールできちゃう訳じゃん。就活とかで散々聞かされた、プレゼン能力とかっていうのも要はそういうことでしょ。テレビCMなんかは分かりやすいけど、あれはいくら企業が物を売るためだって頭で分かってても、知らず知らずイメージに騙されてるもの。
ニュースで戦争で何人死んだって話の後で、顔色変えずにプロ野球の話になったりとかって、誰だってその違和感を口にすることくらいはあるんだけど、恐ろしいくらいに慣らされてしまってるよね。残酷なこと、理不尽なこと、都合の悪いこと、何だって嘘と言えない範囲で柔らかい言い方ができてしまう。

昔はあんまり言葉に注意してなかった。すごく無自覚に言葉を使ってしまってた。そのことに対する不安みたいのは確かにあったんだけど。それである程度歳を取って、言葉で他人がコントロールできるんだなって分かってからは、すごく警戒心が強くなった。言葉ひとつで物事が有利に運ぶか、とんでもない不利を被るか、みたいなことが分かってから、そういう技術で実績を積む手応えがあったりして。
でもそんなこと、大事な人にはやりたくないんだ。人と本当に繋がりたい時に、もし相手の感情をコントロールしたいって気持があったら、きっと見抜かれちゃうもんね。

女は男のことを永久に理解しないだろうし、血液型による発想の違いだって(私は血液型による個性の差というものをかなり信用してる)これだけ違う。二人暮らしというものをやってきて、私たちは何度も何度も傷つけ合ってきて、ようやく分かるようになってきたのは、自分にとっての前提を、もう一度説明しなおさなきゃならないかもしれないってことなんだよね。
ある年齢に達したら、多くの人が一緒に暮らし始めたり、結婚したりするけど、ひとつの家庭の中で違いを受け入れて生きていくって、本当に難しいことなんだよね。誰にだって難しいことのはずなのに、うまくやってる人たちはその技術を教えてくれないし、問題を抱えてる人たちも自分たちよりうまくいかない人たちを馬鹿にすることでまとまったりしてる。好きで一緒になったんだから、できるのが当たり前だろうっていう見えない圧力があるんだよね。

それが世界規模の話になってくると、本当に大変なことなんだよね。相互理解とかって簡単に言ったりするけど、個々の違いっていうことを顕在化させるのが下手な日本人に、そんなこと難し過ぎるはずなんだ。受けてきた教育だって違う、宗教だって違う。
そもそも文化って偏りのことなんじゃないか?ある民族が軸にしているものがあるなら、それを軸にしていない別の民族から見れば、バランスを欠いているように見えるはずなんだ。だけど人間はその偏りを誇りにして生きる権利があるってことなんだよね。だってそれが自分の原風景だから。

その4に続く予定。
お株
画像:お株
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posted by はなほの at 20:59 | らくがきと文章
2005.04.16

バランスへの挑戦その2(画像:もうすぐ泣く時)

言葉や概念っていうのは、実際に心を解放してくれたり、真理のようなものに触れさせてくれたりするものとして、人間の成長に多いに役立つものなんだけど、同時にそこに人間を縛り付けてしまうものでもあるのかもしれないね。特に私みたいに基本的に自分を変えてしまいたいって常に思ってきた人間にとっては、何か新しく手に入れる度に、進んだ手応えのある時ほど、柔軟性が奪われる危険があるんじゃないかと思って。だからいつでも充分に注意してないとって思う。

すべての人間は何かに安住している、と言えると思う。様々な角度から絶えず自己を相対化するっていうことは、結構大変なことで、要は生活と精神世界との往復のようなことをずっとやっていかなくちゃならないんだよね。それは意外に厳しい話なんじゃないのかな。
特に歳を取れば取るほど、自分だけしか知らないバランスの取り方で、人生を積み上げている訳だからね。それを否定したりするのは確かに残酷なことなんだけど、自分はバランスをとって上手に生きてるつもりで、つまらないことに縛られてるのに、誰も教えてくれないっていうことがあるとしたら、本当はもっと残酷なんだよね。

「バランス」とか「柔軟性」っていう言葉もただの標語としては役に立たない。その時の自分の心の状態にプレッシャーを与えるものなら、無視して構わないんだよね。それこそ「バランス」っていうことなんだけど…。つまり好きにしていい、すべてはOK、だけど自分の時間に責任を持つっていうことだね。誰も決めてくれないから。
楽しい、面白い、好きだ、綺麗だ、美味しい、カッコいい、気持いい、この幸せがずっと続けばいい……、その感覚の方がずっと確かなものであって、この喜びを最大限堪能するためには…っていう形で成長すればいいんだと思う。全部当たり前のことのようだけど、できない人にとってはそういう精神的な自立ってとても大変。

私は家事をする時間が惜しくて仕方がなかった。何でこんなことやらなくちゃいけないんだろう、得意な人がやってくれればいいのに…と思っていた。自分の人生なのに、いっつも投げ出したかった。面倒で面倒で、あまりにも意味を感じなくて、女や大人という理由で自分にのしかかる義務を理不尽だと思っていた。もう嫌だと思うと、自分がちゃんと楽しく家事ができる人間になりたいっていう気持もあるのに、どんどん向き合うのが辛くなってきちゃって。

でも面倒臭いのは数ある問題の中では、ましな問題だって思うようにしたら大分楽になった。「面倒臭いけど…、気が進まないけど…、やるか…」みたいな感じで。そうしたら気が楽になって、取り掛かれるようになった。そんなに大変でもなかったなって。「やってよかったな。やる前は面倒だけど、実質ものの15分もあればできるな…。」みたいな感じで、ちょっとずつ感覚を掴めてきたら、面倒な部分が結構省略できるってことに気づいたりしてくる。

億劫だったり苦手だったり嫌いだったりすることだって、本当は何かを好きであるのと同じように、自分だけの大事な感覚なのに、それをないことにするのは本当に無理があることなんだよね。好きじゃなきゃ駄目みたいなさ。そういう重圧って、すごくエネルギーを浪費する。折り合いを付けながら生きていくことを覚えると、夢中になるくらい楽しいことだったりするのにね。

階段を昇る前って恐ろしく差をつけられてるような気がするけど、実際昇り始めたらそんなに大した開きはないぞ…みたいなことも分かってきて。
家事とか、教わってないんだから、難しいのは当たり前。スムーズにできなくてもいいんだ。だって結構複雑なことやろうとしてるんだもん。経験が多い人よりは手際悪いけど、案外すぐ追いつけるもんだよ…。誰もそんなすごいことやってる訳じゃないんだから…。

また、その3に続く予定。
もうすぐ泣く時
画像:もうすぐ泣く時
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posted by はなほの at 23:24 | らくがきと文章
2005.04.15

バランスへの挑戦その1(画像:ミドルエイジ・クレイジー)

言葉を書いていくのは最近やたら難しく感じるんだよね。言葉による認知中毒から解放されつつあるというか。言葉に囚われ過ぎなくなってきたっていうのは、今の段階の私にとっては間違いなく、とてもいいことなんだけど。結局言葉じゃない部分で分かることの方が、実感として大事だと思えてきて。
だから正直に書くけど、こうして文章を書くのは日記を書き始めた時よりずっと抵抗があって、とても苦しい。悩んでばっかりでなかなか先に進まない。以前は考えられないくらい、言葉を信じて生きていたなと思う。もちろんその時には実感を伴ってるから、嘘をついてるつもりはないんだけどね。

最近よく詩を書いていたんだけど、あれはまったく個人的なことばかりで、こんなものWebで公開しちゃっていいんだろうかって気もするんだけど、残して置かないとどんどん忘れてしまいそうなので載せてる。
言葉は実感の入り口までは連れ戻してくれるけど、そこから先は自分で進むしかない。わかる、ということの領域はもう理屈じゃない。だから言葉はそれだけの意味しかないっていうことなんだよね。
でも詩を書くことには意味があると思う。文章より詩の方が、叫びに近いと思うから。自分が感じたことが真実なら、誰か同じように感じる人がいるだろうと思う。自分の他に誰も感じたことのないことなら、きっと嘘だ。表現が拙いせいで伝わらないのは仕方ないけどね。

言葉にしても絵にしても、現実を固定的に封じ込めてしまうことで安心しようとして生きていたんだけど、本当は世界はとても不安定で移り変わって行ってしまうんだよね。その中で自分は常にバランスを取り続けながら生きて行かなくてはならないんだよね。何が真理で、何が正義なのかっていう話から、買い込んだ食材が古くならないようにするためには、どういう順序で消費すればいいかっていう日常のことまで、自分の地点を顧みなくて済むようにはならない。
そんなことは人としてまったく当たり前のことなんだろうけど、教わってないんだもん。難しかったよ。これからもずっと難しいと思う。思考停止の誘惑は何て強力に、人間の成長を阻害するものか、と思うよ。

まあ恥ずかしい話なんだけど、ちょっと生活が破綻してたり、人格がぶっ壊れてたりしてもいいんだって思いがあったのは否めない。確かに今より前の段階ではそういう不完全な自分を受け入れるってことが必要で、そこを通過しなければ絶対にこんな風に思えるようにはならなかった。でも、そろそろまた先に行こうか、みたいな感じで、丁度その周期が形は違う(むしろ逆)なんだけど、みん太にも訪れたので今日は二人でそのことを随分話し込んだところ。
次回、また続き書くね。このテーマについては暫く前から随分考えていたので、何回かに分けて書くことにしました。気が変わらないといいけど…。
ミドルエイジ・クレイジー
画像:ミドルエイジ・クレイジー
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posted by はなほの at 21:14 | らくがきと文章
2005.04.11

寿司の夢、そして日本人の感性(画像:おせんべ食う鬼)

最近よくお寿司を食べるんだ。貧乏人だからお寿司なんかほとんど買わないし、食べに行ったりも全然しないんだけど、本当は二人ともすごく食べたいのだった。こんなに好きなのに、この欲求を無視したまま生きていいのか?人生短いのに?それ以上に望むことなんてそうそうないのに?……なので、自分で握ったのでしたー!!
マグロをサクで買ってきて、包丁でネタを切って、酢飯をひとつかみずつ握って、ワサビをつけてネタを乗せる。カツオは生姜と葱を乗せて。あぶったサーモンでも作った。あとのり巻も。最近初めてやったんだけど、お寿司ってこんなに簡単に食べられるんじゃん!!しかも買って食べるより全然安いし。回転寿司くらいの出来ではあると思うよ。

みん太が「寿司握ってよ」と懇願したので初めて挑戦したんだけど、とっても感激してくれた。みん太が気に入っていた岡本かの子の『鮨』という作品を暫く前にまた二人で読んだので、「拵える人は、おまえさんの母さんだよ。」「すし! すし」などと言って真似をしながら食べたのだった。
刺身もいいんだけど、寿司の方が夢があるんだよね。完璧な食べ物だよね。一口で完結することの心地よさっていうのは、味わってみないと分からないんじゃないのかな。食事というものは皿から手か道具を使って食べるとか、塊を一口ずつかじるっていうのが世界の標準なんだよね、きっと。
寿司は主食とおかずがひとつになっていて、しかも初めから混ざっている訳ではなく、自分の口の中で味や食感が融合していくのを楽しむんだよね。何だか自分で作ってみて、改めてこのシンプルで合理的な寿司というものの世界に感動しました。

お菓子の個包装も(言うまでもないかもしれませんが)本当に徹底してるよね。高いのは問題だが…。形とか食感で美味しく感じさせる文化がどこまでも発達していくよね。結局味が濃いだけとか量が多いだけの輸入品のお菓子って、なかなか主流にはならないんじゃない?

よく日本文化の発達の仕方を考える時に、年少者に優しくあろうっていう方向を持ってるんじゃないかと思うんだよね。ひらがなが生まれた理由も同じなんじゃないかと思って。それは結局、年寄りや病人にも優しくっていうことになっていくんだろうけど。
自分にとって簡単なことや標準的なことでも、ハードルが高いと感じる人がいるから、その人に合わせる為に感覚を研ぎ澄ましていく。そうやってハードルを下げることで、誰にとっても気持よく簡単なもの、つまり品質の高いものを生み出すことになる。今の社会だったらそれが企業の利益になる訳だから、どこまでも追求していく。

つまり日本人の感性は、子供なんだよね。お菓子って子供だけが食べるんじゃないもんね。大人がすっごい食べるし、大人の為に作ってるお菓子ばっかりだし。大人がお菓子を食べる時、子供に帰ってる。
寿司を食べる時も、自分の為に食べやすく、美味しく、気持よくしてもらっていて、当然のようにその愛に包まれていいっていう安心感を堪能してる。
お握りもそうだね。今日は随分働いて疲れたから、さあ食べようっていう時、お握りの嬉しいことと言ったら…。お弁当箱よりもやっぱり、体動かした後なんかは手で持ってぱくっとしたいよね。
(何かの知識があって言ってる訳ではなく、飽くまで私が勝手に思っただけのことだけどね。)

それにしても、自分の欲求に優先順位をつけて整理するっていう作業はつくづく大事だと思うね。すごくしたいことを諦めて見ないようにしながら、どうでもいいことにその何十倍もの金やエネルギーを割いちゃってるっていうことがいくらでもあるもんね。整理されてない情報の中から自分で選択して決めるってことは実はとっても難しいからさ、目の前にあることだけを処理するのが楽なのは当たり前なんだよね。特にそういう大事なことを私たち教わってないんだもん。貧乏性だし…。
でも、整理することから逃げるのはもうやめ。苦しくむずくめんどいけど、自分の欲求に気づいてそれを満たせるのは自分だけだもん。それだけは、誰もやってくれないんだよね…。
おせんべ食う鬼
画像:おせんべ食う鬼
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posted by はなほの at 16:05 | らくがきと文章
2005.04.01

司馬遼太郎のエロい小説(画像:怒られた後猛烈に抗議する図)

何日か前にブログタイトルの画像を新しくした。左の方にいるカエルは、東京に住んでいた頃に飼っていたヒキガエル。時期はいろいろだけど合計で3匹飼った。初め「ダリ」とか「クリムト」とか名前をつけたんだけど結局定着せず、どのカエルも「ケロ」と呼んでいた。またそのうち書こうと思うけど、そのうち2匹は私が殺してしまった…。
動物や機械などの寿命を終わらせるのはいつも私だった。昨日も飢渇丸(前にも書いたけど、きな粉と胡麻と蜂蜜をこねたものをうちではそう呼んでいる)を作ろうとして、ビニール袋にいれた材料(粘土みたいになった塊)を閉じたノートパソコンに叩き付けてたら、みん太に怒られて「えっ」となった。柔らかいものだから大丈夫だと思ってまな板代わりに使っていたけど、「お前、これは台じゃなくて精密機械なんだぞ!!」と言われたので「あっ」と肝を冷やした。壊れてなくて本当によかったです。

それから「CDジャケットデザイン」というカテゴリを作ったりした。あとロゴもようやく完成したのでどんどん使って行く予定。本当に初期の頃からずっと欠かさず見てくれてる方がいるみたいで、ただならぬ縁を感じてしまいます。貴重な時間を割いて遊びに来てくれてると思うとつくづくすごいことだ。そして自分たちが変化していく過程を知ってる人がいてくれるということがとっても心強いです。ありがとう!

最近詩をよく書いていたので、詩の更新が進んだ。何もない時には全然書かないんだけど、たまにすごく書きたくなる時期があるので、そういう時は毎日書くので詩の更新だけ進んでしまった。最近アップしたやつは大体その日に書いたものです。
最近日記の更新が空いたので、どうやって文章書いてたのかわからなくなった。何でものってる時には他のことできなくなっちゃうからなー。ちょっと日記書かずにいると言いたいことも溜まってくるんだけど、整理するのが難しくて…。

最近あったことと言えば、今週の爆笑問題カーボーイのレディーボーデンのコーナーで、「生きていくのに必要なものは」(だったと思う)っていうお題の時、ぱっと頭に浮かんだ答えが太田と一緒だったので、すごーく嬉しかった!!最近考えていたことだったので、やっぱりこれだろうって思って。その答えは「勇気」でした。
あと、最近は司馬遼太郎の初期のエロい小説をどきどきしながら読んでいる。こんなにすごいエロ小説があるのを知らなかったんだけど、ものすごく面白くて、みん太が先に読んだところを喋ろうとするから「楽しみを減らすんじゃねえよ!」と叫んでいるのだった。
怒られた後猛烈に抗議する図
画像:怒られた後猛烈に抗議する図
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posted by はなほの at 23:04 | らくがきと文章
2005.03.24

自作スピーカーの素材その2(画像:ともに集中している時、片方が集中している時)

いい音を求めるみん太の挑戦はまだ続いていた。そして辿り着いたのは、サラダ油のペットボトルであった。たまたまうちにあった「豊年サラダ油」の1500gの潰して捨てられるエコボトル。
ギタースピーカーは素晴らしいんだけど、旅行用に持ち歩くことができないので、もっと手軽でいい素材はないか…といろいろ試しているうちに出会った感動的な音が、このペットボトルであった。ペットボトルも大きさや厚さや質感がいろいろあるから、かなり差が出るんだね。まだ手元にあるのが少ないのであんまり試せないんだけど(だってペットボトルの飲み物はほぼ買わないし…)、たまたまうちにあったこの素材はかなりヒットだった。

何日か前にみん太は醤油のペットボトルの底に穴を開けたんだけど、底の部分がめちゃくちゃ分厚くなっていて、とても刃物で切れないので、ガスコンロで直接あぶったり、ライターで釘を熱してそれで穴を開けようとしたりしていた。しかも固まったところがかちかちになって余計盛り上がって切りにくくなったりして、とっても大変そうだった。
しかし今度のサラダ油のエコボトルは簡単に折り曲げられるだけあって、加工しやすい!ハサミでさくさくと切ることができるので、はめたい形に合わせて綺麗に穴を開けられた。何て優しいエコボトル!!

見た目も半透明でおしゃれだし、手触りもいい。よそよそしくないというか。素材の柔らかさが音に表れているっていう感じがする。音の粒が玉の形だとするなら、とっても大きな玉なので気持いい、というようなイメージ。
昨日みん太が作ってから、いろんな曲をこのスピーカーで聴いてるんだけど、本当に心地いい音なんだよね。打楽器の音が特に、どしどし、ばこばこ、みたいな感じの音で、何か体によさそうなの。ギターの方が確かに音はクリアーなんだけど、エコボトルは何とも言えない優しい響きで、例えるなら水の中からぼこぼこっと大きな泡が出てくる時の音に似た感じ。

素材感がそのまま音になってる感じがする。側で聴いていても、うるさく感じないんだよね。特に低い音が懐が深くて温もりがある。この気持よさ、かなりやみつきになっているのだった。
茶缶の時は、響きがいい感じだと思ってたんだけど、もっとひりひりする感じの音だったんだよね。側で聴くと、その尖った感じがちょっと体にきついような感じがあったから、エコボトルはすべてにおいて優れていると思う。
これからも、みん太のいろんな素材への挑戦は続いていくと思うので、またいい素材に出会えたら書きます。今はとにかくエコボトルがお気に入りだった。エイフェックスの『Richard D. James Album』を聴いたりしてたんだけど、最高!!

私は何もわかってないので、感覚だけで言っています。専門的な知識のある人や、自作スピーカーを研究してる人から見たら、かなりいい加減なこと言ってると思われてしまうでしょうが、どうか大目に見てやって下さい。
ともに集中している時
画像:ともに集中している時

片方が集中している時
画像:片方が集中している時
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posted by はなほの at 06:54 | らくがきと文章
2005.03.22

自作スピーカーの素材(画像:バリ)

みん太はついにスピーカーを自作した。前から手作りスピーカーのサイトを見て「自分もやってみたい」と言っていたんだけど、ついにPCに付属のスピーカーを解体し出したのだった。普段からこたつの周りには読みかけの本や、お茶の缶や、脱いだセーターや、食べた後の食器などが雑然と置いてあって、次に使う時に片付けるという暮らしなんだけど、その中でまたみん太は作業を始めたので足の踏み場もなくなっていた。しかし、その日のみん太はとても軽快に周りの物の山を乗り越え、道具箱をあさり、必要な工具を揃え、ペットボトル、紙の筒、茶缶などのスピーカーのボディになりそうなものをせっせと集めてきた。

この記事を書いている私がまったく機械というものをわかっていないのであんまり詳しく説明できないんだけど、それでも音を聴き比べるのが面白い!いろんな素材の音を聴かせてくれたんだけど、お茶の缶は金属なので「モイイモイイ」と響くのがとっても新鮮だったので、私は初めは「これが一番好き」と言っていた。音があんまりクリアーじゃないというのは薄々感じていたんだけど、みん太が茶缶の中に紙の筒やプラスチックの器を入れて「こうするとどう?」と言った時に、何か金属っぽい響きが死んじゃうような感じがしたので、「缶だけの方が好き」ということで、その日は初めての自作・茶缶スピーカーが誕生したのだった。

その後はテレビもスピーカーで聴くようにしてくれた。それにしても、真面目に音を聴き比べるということ自体したことがなかったので、自分に違いがわかるものだろうか…と思っていた。味の違いとか、音の違いとかってわかるようになりたいけど、そんな風に感覚を研ぎ澄ますのって、簡単じゃなさそうだもん。
でも、何かわかるようになった気がしたんだ。前は集中しなきゃっていう強迫観念みたいなのがあって、それが自分にとって不自然な努力のいることだと思ってた。でも、そうじゃないんだよね。むしろ逆、楽になっていくことなんじゃないかって思い始めた。余計なこと考えるのをやめて、誰かが演奏して、声をあげている、その音のひとつひとつが自然にかなっていて気持いい、その奇跡にただ触れるだけでいいんだっていうこと…。

スピーカーはひと晩経ってからまた冷静に聴き比べてみたら、全然こっちの方がいいじゃん、というものがあった。…て言うか、一日目にみん太が「これどう?」と言って聴かせてくれた時には、「うーん、それは何か普通だな。やっぱり茶缶の方がいいや」と言って、私があっさり候補から外してしまったものだった。は、恥ずかしい…。それは、ギターであった。
うちにはクラシックギターが3本あるんだけど、全部弦が張ってあるのが1本しかないので、もう2本は埃を被って眠っていたのだった。その2本のギターをスピーカーのボディにして音を聴き比べてみたら、さすが楽器!!断然いい、というのが私にもはっきりわかるほどよいのだった。音がそれぞれ独立して聴こえるっていうか、生演奏のようなありがたさを感じることができるのだった。余韻があるし、何だかしみじみと音を体験できて感動!

一応どうやって作ったのかを説明しておくと、茶缶のプラスチックの中蓋に穴を開けてスピーカーのユニットをはめてネジで固定したものを、ギターのホールの部分にはめた。(大きさが丁度よかったので、うまくはまった。)ホールにはめるために弦を緩めるけど、どこかを壊したりする訳じゃないし、ギターが使えなくなったりすることはないので、ためらいなくできるのがいいところ。

そして今、この日記を書きながらもギタースピーカーの音を聴き続けている。みん太が試行錯誤して作ったスピーカーだと思うと、なおのこと大事に聴こうっていう気持になる。ギターの音は特に、この楽器から鳴ってるような臨場感もあっていいんだよね。私はギター全然弾けないから、普段ほとんどギターの音に注意して聴いたりしてなかったんだけど、このスピーカーから聴こえてくると、うまいなーとか気持いいなーと思って、今は丁寧に聴いている。
さっき二人でジョン・レノンの『God』を聴いて、さめさめと泣いた。言いにくいことを言ってくれる人が本当の大人だと思う。
バリ
画像:バリ
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posted by はなほの at 06:49 | らくがきと文章